2013年12月23日月曜日

ネルソン・マンデラ

南アフリカの元大統領、ネルソン・マンデラ氏が死去した。

マンデラ氏の功績は言うまでもなく、悪名高い南アのアパルトヘイト(人種隔離)政策を撤廃に追い込んだことだ。
その昔、南アフリカでは少数派の白人が多数派の黒人を極端に差別し、政治、経済などすべての領域で支配していた。人種差別を制度化する数々の法律が制定され、強固な抑圧体制がつくられていた。

マンデラ氏は黒人解放団体の指導者として反差別闘争を率いたが、厳しい弾圧を受け27年半に及ぶ獄中生活を送った。しかし決して屈せず、白人側の指導者と粘り強く交渉し、差別撤廃と民主化への道筋を付けた。

これだけでも歴史に残る偉業なのだが、マンデラ氏の真価は、むしろここから発揮された。

1990年2月11日。27年間にわたる囚人生活を終えたマンデラ元大統領はケープタウン郊外の監獄を出て自由の身となった。誰もが待ち望んでいた瞬間だった。

その後、ケープタウンの市庁舎でマンデラ元大統領が行った演説は、多くの人々の予想を裏切るものだった。バルコニーの前の広場には、新たな社会の夜明けに期待する約10万人の市民が集結していた。自らもその場に居合わせたという地元の観光ガイドは「抑圧されていた黒人は仕返しの狼煙(のろし)になると思っていたし、加害者側だった白人は戦々恐々としていた」と打ち明けたあと、こう付け加えた。

「だけど、マディバ(マンデラ元大統領の愛称)は白人を許すように言ったんだ」

「やられたらやり返す」という「対立」の図式を強調するのではなく、「融和」を訴える姿勢は、その後の南アフリカ社会に深く浸透し、それが南アフリカ人としての誇りにつながった。

マンデラ氏は1994年、すべての人種が参加した初の選挙で勝利し、南ア初の黒人大統領に就任した。白人は黒人主導の政権からの復讐(ふくしゅう)を恐れたが、マンデラ氏は報復より和解の道を選んだ。

南アではアパルトヘイト時代に白人の治安当局や政党が、政治活動をする黒人を法の手続きを無視して殺害するケースも多かった。マンデラ氏は「真実和解委員会」を設置し、弾圧やテロの加害者と被害者が公聴会の場で向き合い、真実を告白することで免責する制度を採用した。懲罰ではなく許しと癒やしに重点を置き、憎しみの連鎖に陥るのを食い止めた。

この手法は、その後の民族紛争処理のモデルとなった。マンデラ氏が全人種から「和解の人」と敬愛されたゆえんである。

まさに偉人だった。

しかし、マンデラ元大統領の「融和」の教えは、残念ながら今の東アジアには見当たらない。
「加害者と被害者という立場は、千年過ぎても変わらない」と演説する一国の大統領が居ることは悲しいことだと思う。