想像して欲しい。満開の桜の下から人を取り去った風景を。その光景は美しさよりも怖さを思い起こさせはしないか。
古来、桜は観賞するものではなく、山奥に咲き人知れず散っていくそういう花であった。今のように観賞用の桜など無く、里では観ることができない花だったのだ。そして山奥で桜の咲く様子はあまりに幻想的であり、その美しさに古人は畏敬と時には恐怖の念を感じて桜には近寄らなかった。
坂口安吾の「桜の森の満開の下」に、昔の旅人が夜の山道で満開の桜を見て、恐れおののいて急いで桜の下を通り過ぎたという話が出てくる。
昔は満月の夜にその月明かりで旅していたのだから、月明かりの下の満開の桜は旅人にどう映ったのか?
ほんの一ヶ月前までは老婆のような枯れたような老木が、今はこの世のものと思えない程の美しさに変わっている。そこにアヤカシの存在を感じ取ったのも無理もない。桜の木のそばには鬼が住んでいて、人が桜の美しさに誘われて近づくと鬼に食われてしまうとさえ思っていた。
実際に美しい桜を観たいと家族の反対を押し切って山奥へ行き、行方知れずになる者もいただろう。そう言うときは、桜のそばの鬼に食われたのだと噂されたと思う。
それが江戸時代になりソメイヨシノが開発され桜は一気に普及した。それはソメイヨシノは従来の桜にない長所を幾つか持っていたことに起因する。
まず一つは、ソメイヨシノは先に花が咲き後から葉が開く。桜の種類によっては花と葉がほぼ同時に開くものもあるが、ソメイヨシノのように花が先のほうが見ばえが良く評判がよかった。
二つめは成長が早くて10年も経てば立派な木になり、他の桜に比較すると若いうちから花を咲かせる。またソメイヨシノの花は少し大き目で、花付きもよく見た目が豪華であった。
これらの長所を持っていたため、ソメイヨシノは明治に入ってから、全国の城跡や公園、学校、河川の堤防沿いなどに植えられ、急速に普及していった。現在では観賞用の桜の殆どはソメイヨシノである。
そして昔は桜を恐る恐る鑑賞していた人々も、その美しさを手軽に鑑賞できるようになったのだ。流石に鬼も里へまでは降りて来られまい。
一度月明かりの下の満開の桜を観てみたいと思うが、今の世では他の灯りが多く純粋な月明かりの下というのは難しいか。というよりその美しい恐怖を恐れているのかも知れない。
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